安倍元首相の銃撃事件が発生してから旧統一教会と自民党議員との関係性について連日マスコミによる追及が続いている。
当然、現在の日本においてはどんな理由があったとしても他人の命を奪うことは許されない。
ただ彼は、自分の社会的な地位や人生を引き換えにしても、自分を不幸にした教団に加担していると思った男を斃すことを決心し、周到な準備を重ねてそれを完遂した。
彼は教団の社会的な悪についての義憤で動いたのではなく、純粋に自分や家族の人生を破壊した教団に個人的な恨みを抱き動いたのだろう。
彼の行ったことは決して許されないが、彼の不幸な境遇についての同情は禁じ得ない。
金融商品については購入者がそのリスクを認識せず意図しない損失を招かないよう、法律により販売者に厳密な説明責任が課されている。
一方、宗教法人による物品の販売や寄付は、それが購入者の経済的存続を破壊し、家庭を崩壊させるような多額のものであってもなんら規制されていない。
そして霊感商法のような集金システムは未だに根絶されていないようである。
教団が信者の不幸を生み出すかも知れぬ集金システムによって成り立ち、それを薄々知りながらも利用してきた政治家、団体は当然責められることだろう。
政治とは、一体何のためにあるのか?
国民を守ることがその存在意義の一つであるとすれば、今回の件は政治がその役割を成していない結果の一つではないかと思う。
借金をさせてまで寄付をさせるなど、人を救うという宗教の存在意義からすれば全く矛盾しているし、倫理的にも許されるものではないと思う。
おかしいと思ったことをおかしいと素直に言えること
他の人に期待されること合わせることが正しいのではなく、自分の思想の自由を死守し、自分の頭で考え自分の判断で行動すること
相手の立場に立って、相手を慮ること
和をもって尊しとすることは日本の美点でもあるが、同調圧力とそれへの迎合の期待が強い日本だからこそ、自分で調べ、自分で判断し、自分の意思で発言・行動することが、情報の即時共有化が進む今こそ、とても重要になってきているのではないだろうか。
自分で考えること、勇気を持って行動することを放棄し、他人や組織へ迎合したり事なかれ主義で行動することは、その小さな積み重ねが巨大な悪や不幸に結びつく。
自戒の念を込め、意識していきたいことである。